西関脇から大関へ ~調べてみればいとをかし~

2017年5月31日、水曜日。

この日に開かれた番付編成会議で、高安の大関昇進が正式に決定しました。

稀勢の里と同郷・同部屋ということもあり、テレビのワイドショーで伝達式が生中継されるなど、話題にもなりましたね。

ところで、今回の高安は、西関脇からの大関昇進でしたが、私は、この「西」という1文字に引っ掛かりました。

東の関脇を差し置いて、西の関脇が昇進する。これって、結構珍しいことなのではなかろうか?と。

そこで、早速その日、帰宅してから、過去に遡って調べてみました。

対象としたのは、「私が小学校に上がった+カープが初優勝した」という(笑)昭和50年に昇進した魁傑から、一昨年の照ノ富士までの大関昇進力士、39名です。

なお、大関陥落直後の関脇場所で10勝して復帰したケースは除いています。

また、魁傑は間をおいて2回昇進しているので、事例としては40例となります。

さて、調査してみたところ、西関脇から大関昇進を果たしたのは4名(4例)ありました。

しかし、そのうちの2名は、実は、東関脇力士との同時昇進でした。

従って、「東関脇を差し置いて西関脇が大関に昇進したケース」は、次の2例のみとなります。

(当該力士、昇進場所、東関脇力士 の順に表記。)

曙 平成 4年5月場所後 栃乃和歌

出島 平成11年7月場所後 魁皇

結果、やはり思った通り、稀有な事例だと言うことができました。

そして、調べてみたおかげで、関連情報として少し興味深いことが2つ分かりました。

まず、出島の次が高安、ということになるのですが、2人とも「本名のまま大関に昇進した力士」であり、しかも、この条件においても、出島の次が高安、という並びになったのですね。

そして、出島は関脇での優勝により大関昇進を決めたのですが、このときの優勝決定戦の相手が、横綱曙だったのです。

まあ、取るに足らない偶然なのですが、ちょっと面白かったのでお知らせしてみました。

というように、昇進の仕方も様々あるわけですが、いずれにしても、より大事なのは「大関になってからどう磨いていくか」であると思います。

大関に適う成績を挙げたからこそ昇進を認められたわけなのですから、高安には、期待に応えるべく、努力を続けてほしいと思います。

この記事の本題は以上です。

最後に2点ほど書いて、終わりにしたいと思います。

今回は「大関昇進」について調べましたが、同様のことが「横綱昇進」についても過去にあったかもしれません。

この記事を書き始める直前にフッと思ったのですが、高安の昇進に絡めての調査ということで、横綱昇進バージョンは割愛します。というか、調べてません(微笑)。

興味と時間がある方は、調べてみてはいかがでしょうか。

それと、大関とは関係ありませんが、前記事で名前を挙げた岩崎が、正式に十両昇進を決めました。

「改名するのかな?」と気になっていたのですが、翔猿(とびざる)という四股名を名乗ることになりましたね。

私はてっきり「しょうえん」と読ませると思ったのですが、まさかのキラキラネーム(笑)。

まあ何にせよ、注目を浴びることはいいことです。

是非、関取1場所目を暴れまくってほしいと思います。

それではまた。

最後までお読み下さった皆様、ありがとうございました。